エアコンは嫌いです

都内某大学に通う文系大学生のメモ。

発達障害

生きづらい。そう感じたことは何度もある。

私は発達障害持ちだ。そうは言っても特別支援学級に通うほどではなく、いたって軽度で、勉強には支障がないどころか、向いている方だった。ただ人との付き合い方がわからない、やるべきことの正しい優先順位がつけられない、忘れっぽい、落ち着きがないなど、社会に出ればクズ認定されるような障害は持っている。

自覚したのは中学生の頃だった。小学校に入りたてのころから問題を起こしがちで週に一回は家に電話がきていたり、心療内科に通いはじめたりしていたから、私は何かおかしいんだと薄々感じていた。悩むほどではなかったが少し気にしていた頃、親の本棚に発達障害の子どもに関する本がずらりと並んでいるのを見てしまった。

絶望した。書いてあることを読んでみたら、すべて当てはまる。ますます絶望した。勉強せずともそこそこできたことだけが自信で、「自分は天才肌だ」と思い込んでいた矢先であったのに、それさえ病気のせいだという。唯一の取り柄も、多くの欠点の要因によるものだなんて、信じたくなかった。

その場で泣き崩れ、そのまますすり泣いていたから、親が帰ってきて驚いて「どうしたの」と聞かれた。「わたし障害者なの?」と聞いた。「言わなくてごめんね。障害者という言い方はおかしい。人には良いところも欠点もあって、それが個性なの。だから気にしなくていいの」と諭された。当時は理解できなかったが、今なら分かる。

他人の気持ちがわからない。本音と建前の区別がつかない。やるべきことを後回しにする。忘れ物も多ければ短時間で物をなくすことも多い。じっとしていられない。集中しているときはそればっかりになり、集中できないときはじっとしていることさえ困難になる。

すべて病気のせいということもあるが、病気のせいにして諦めてしまったらそれまでだとも思う。病気のせいにする自分を恥じているが、どうにもならないと諦めかけている部分もある。

話は変わるが高校時代。地元で有数の進学校と呼ばれるところにまぐれで合格したのはいいが、蓋を開けてみればアスペルガーADHDを持っているだろう同級生ばかり。その分生きやすさはあったが、同族嫌悪による本能的な拒否からは逃れられなかった。自己中で自分の話しかしない。病気だからだと言い聞かせても、8割がそのような人種であり、しかも程度も比較的重いものだという環境は苦痛だった。発達障害の弊害で起きやすい鬱病を発症し、不登校になった。家からも出られなかった。

時間をかけてなんとか復活し、受験勉強もそこそこに楽しんでこなし、社会的評価が高いとされる私大に入学した。高校に入りたてのころよりも多少成長した自分と周囲であったから、初めのうちはボロを出すこともなくやっていけた。しかし、初めてのアルバイトは踏んだり蹴ったりで、同時に2つのことができなかったりダブルブッキングさせてしまって片方をブッチしたりと問題が続き、結局両方ばっくれる形で辞めてしまった。サークルでさえも後回しになり、信用を失い、去らざるをえなくなった。朝早く起きられても、なぜか授業に行けない日も多く、単位もぼろぼろ落とした。

自分で自分の首を絞めていくごとに、自己嫌悪に苛まれ、自己肯定感なんてまるでなかった。生きることが辛くて仕方がなかった。1つもまともにできない自分を責めた。無条件の愛をくれる家族にさえ、罪悪感から会いたくなくなり、実家にもろくに帰らなかった。

全部病気のせいにしてしまえば楽だ。社会がサポートをしてくれれば楽だ。しかし、人間として足りないのは変わらない。発達障害のサポートを謳う学校や会社、全部嘘だと思う。実際に病気を抱えていないものからすれば、すべて甘えでしかないからだ。

診断書が出ない程度に落ち着いてはいるが、潜在的には発達障害を抱えている者は、どうやって生きればいいのだろうか。もう親に守ってはもらえない。この社会に所属し、生き続けるために、どうにもならない部分をどうにかしなければいけない年頃になってしまった。発達障害持ちとして生きていく今後を憂う、東京への新幹線であった。