エアコンは嫌いです

都内某大学に通う文系大学生のメモ。

視覚

視力が低い。普段は眼鏡かコンタクトを使用している。度数は両目とも-3.5くらい。乱視もすこし入っている。眼鏡を取ると全てがぼやけて、外を歩くのも怖いし、家の中で探し物をすることもできない。

眼鏡をかけると、ピントが合う代わりにすべてが微妙に小さく見える、気がする。ほんとうに微妙な差だが。

だから、視力の低いわたしが眼鏡を通して見ている世界と、もともと視力の高い人が裸眼で見ている世界は、きっとすこしだけ違うのだろうと感じる。わたしの見ている世界はすこしだけ小さく、他人の見ている世界はすこしだけ大きい。事実かはわからないが、それがとても怖くなる。

視覚は人間が生活する上での大半の情報を受け取る。その視覚を、信用できなくなってきてしまった。色盲という病があるとおり、他者の目とわたしの目では見えているものが違う可能性も十二分にあるのではないか。自分が赤に見えているものが、ある人には緑、ある人には青に見えているかもしれない。となると、ものの正しい色形などが確実にわかる方法などない。自分は何を信用して前を向けばいいのかわからない。

視覚に頼りすぎている。電車の中ではほとんどの人が寝ているかスマホをいじっているかどちらかだ。ある日突然、みんなの目が見えなくなってしまったら、彼らは何をするのだろう。本、映画、絵画、芸術のほとんどが視覚を必要とする。音楽でさえ、音それ自体だけでなく演奏している演者を見ることで感じるものもあるのだから、聴覚だけで完全に楽しめるかと言うとそういうわけでもない。

あるもの、も、あるいは、ないのかもしれない。それでいいのかもしれない。

死ぬのと同じくらい、視覚を失うのが怖い。持っているものがなくなる、当たり前がなくなる瞬間はあまりに味気なく、突然で、悲しく、つらいのだろう。しかしそれにも慣れ、失う前のことを忘れていくものだ。

当たり前のことに感謝せよ、と、使い古されて擦り切れた言葉は、切迫した意味を持たない。失って初めて気づいたことに人は後悔するが、それを改められるときはこないのではないか。

わたしが今こうして、自分が日々考えているくだらないことを、つらつら書きつらねる、このことも視覚によるものだ。

見えること、生きていること、愛し愛されるを大切にしつつ、おごり高ぶらないように、つつましく、生きていけたらと思う。今日も空はどんよりしていた。