エアコンは嫌いです

都内某大学に通う文系大学生のメモ。

普通

普通って何だろうと、よく考える。

普通じゃない、とよく言われる。

ありがちな人生、たとえばE-girlsのことを心の底から好きだと言うファンの女の子のような人生は送ってきてはいない。いや、送れなかった。

容姿に恵まれなくともスクールカーストは最上位か真ん中、そのままぬくぬく成長し、ルミネエストの二階あたりにある服を着て、スイーツに目を輝かせテニサーやオーランでちやほやされる、いわゆるキラキラゆるふわ女子大生になり、なんとなく就職するような、それがありがちな人生だと思う。

正直、つまらない。だから違った価値観に誇りを持って思ったことをだらだらと吐き出してのらりくらりと生きる。それがどうやら普通じゃないらしい。

普通じゃないと言われたときを振り返る。

彼氏がいないときのことだ。セックスなんて減るもんじゃないし挨拶みたいなもんだろ、と言ったとき。

back numberとか西野カナ、ナオトインティライミファンキーモンキーベイビーズは心から嫌いだと言ったとき。

丸尾末広駕籠真太郎が好きだと画像を見せたとき。

連れションなんて恥ずかしいことできるか気持ち悪い、と言ったとき。

普通はつまり、大衆であり多数派なのだ。みんな、で括られるものになりたくなくて、みんな、で括られているものを憎んでいる。

負の感情が高まるとその傾向がぐんぐんと増して、吐き出さずにはいられなくなる。わたしをくくるな、みんなと同じじゃ嫌なんだ、と。

ロキノン系も恋愛のことしか歌わない女も東野圭吾重松清も少女漫画の実写映画も逆ハーレム系ラブコメも制服ディズニーするやつらも、全部全部嫌いなんだ。

こう言うことによって自我を保とうとする。自分が自分として価値のあるものなんだと思い込もうとする。個性がない者や、言いたいことを言えない者が嫌いなのだ。見ていていらいらする。

こんなになんでもかんでも嫌ってちゃ視野が狭まるとは言われるが、そうは思わない。嫌いなものは見なくてよくて、好きになり得るものだけ見ればいい。視野などいくらでも広げられる。

世に対するヘイトばかりでいつも何かに怒って、生きづらいとは思う。しかし同じヘイトを抱えたもの同士でしか関わっていないから、楽なのだ。彼らとわたしも少しずつ違うのだが。

何が好きで、何が嫌いでもいい。それは個性だ。でも、普通か普通じゃないかで区切ることは、その人個人に対する侮辱でもあるのではないだろうか。