エアコンは嫌いです

都内某大学に通う文系大学生のメモ。

オートマティズムのようなもの

10/8 3限が始まる前

 

仏像は面白いけれど実際見てみないと正直よくわからない感は否めないな、太ったり痩せたり人間と一緒で忙しいね、人間なんて別に痩せてても太っててもいいだろうにいちいちうるさいんだよ健康なんて知るか生き急いでいくぞ、たばこもやめないし酒も飲むしチャンスがあればハッパだってやってやるよただし薬は絶対やりません、トレインスポッティング見ただろヘロイン怖すぎるって流石にチキる

本当にそれだけでいいのか?クッソ眠いマジで眠いなんなんだ、いやそうか寝てないからだわけど寝てから1限くるとか普通に起きられない、クーラーが直撃して寒くて余計眠いし踏んだり蹴ったりだ、出席カードも日付書いてあって代返できないしおかしいぞ~?あ、ダメだ眠すぎる

 

この後本当に寝落ちした

ここ最近のこと

せっせとブログを書いていた時期から一年とちょっと経ちまして、大学3年の冬がもうすぐ終わる。

 

バイトも彼氏も単位状況も全て変わった。あの頃のように彩りに満ちた毎日ではないけど、それはそれで満足。

 

正直毎日疲れている。どんなに寝てもごろごろしても疲れているような気がする。パトラッシュに泣きつきたい。

 

どうにもならないことばかりで吐き気がする。自分がばらまいた種が芽吹き私を攻撃している。もうずっとこんなんだ。

 

人生リセットボタンをくれ。

アダルトビデオ

スマホで数多くのAVが見られるようになった。無修正ものも、マニアックなものも。素人ものや人妻ものなど人気系統は数え切れないほどだ。

このようなご時世、アダルトビデオが売れないのは必然的だろう。取り締まろうとしても取り締まりきれないところまできている。

無料の短い動画を見て、この女優いいな、とDVD版を買う人もいるかもしれない。しかしそんな人は少ないだろう。なんたって無料で見られるのだから。

わたしはAVが好きでよく見る。もっぱらスマホで検索して、だが。特に好きなのは野外露出や痴漢、人前で〇〇など羞恥ものだ。実際に見たことがない現場、また、自分ができるわけもないシーンに心躍らせるのだ。特に自分が異常性癖だとは思っていない。

人気系統は一通り見てきた。人妻ものより素人ものの方がまだ良い。概して言えることだが、人妻や素人などと謳っておいて女優は完全に乗り気だし、ここで抵抗するだろ普通っていう場面でなぜか自分から股を開くなど、どう考えても設定と乖離した行動が多い。これには興ざめだ。

また、男優の顔が一切映らないのも、女性視聴者としてはもったいないと感じる。恋人以外の男性が快感を感じている動きや顔に興味がないわけではない。

一番物申したいのは、痴漢ものだ。女優が抵抗という抵抗をほぼしないうえに、周りはみんな知らんぷりしている。もっとリアルにしてほしい。例えば、周りがざわついたり携帯で動画を撮り始めたり、女優が必死の抵抗を見せたり、数人の知らんぷり組だった付近の男性たちがおそるおそる女優の身体に手を伸ばしついには参加してしまったり。やりようはいくらでもある。

AVなんてファンタジーだ、とはよく言われているが、視聴者はリアリティを求めているのではないか。少なくともわたしはそうだ。

加えて先日、AV女優へのインタビューの中で、ある女優が台本を見た際に「こんなの絶対気持ちよくないじゃん、と思ってイラっとした」と言っていた。それはちょっと違うのではないか。男性向けAVであるということは、男性の性的欲求を高めるために出演するということであって、気持ち良い気持ち良くないは女性向けAVに出演する際に言うことだろう。大抵の男性はAVによって知識を得てそれを実際のセックスで使おうとする傾向があるからこのような発言をしたのかもしれないが、だったら「セックスの勉強は女性向けAVでしなさい!」と声を大にして言うべきだ。

今の性産業へのご意見は多々ある。自分がこの産業に関わってこれらの意見をバシバシと言っていけるような立場になりたい、なってみたいと近頃思うようになってきた。

普通

普通って何だろうと、よく考える。

普通じゃない、とよく言われる。

ありがちな人生、たとえばE-girlsのことを心の底から好きだと言うファンの女の子のような人生は送ってきてはいない。いや、送れなかった。

容姿に恵まれなくともスクールカーストは最上位か真ん中、そのままぬくぬく成長し、ルミネエストの二階あたりにある服を着て、スイーツに目を輝かせテニサーやオーランでちやほやされる、いわゆるキラキラゆるふわ女子大生になり、なんとなく就職するような、それがありがちな人生だと思う。

正直、つまらない。だから違った価値観に誇りを持って思ったことをだらだらと吐き出してのらりくらりと生きる。それがどうやら普通じゃないらしい。

普通じゃないと言われたときを振り返る。

彼氏がいないときのことだ。セックスなんて減るもんじゃないし挨拶みたいなもんだろ、と言ったとき。

back numberとか西野カナ、ナオトインティライミファンキーモンキーベイビーズは心から嫌いだと言ったとき。

丸尾末広駕籠真太郎が好きだと画像を見せたとき。

連れションなんて恥ずかしいことできるか気持ち悪い、と言ったとき。

普通はつまり、大衆であり多数派なのだ。みんな、で括られるものになりたくなくて、みんな、で括られているものを憎んでいる。

負の感情が高まるとその傾向がぐんぐんと増して、吐き出さずにはいられなくなる。わたしをくくるな、みんなと同じじゃ嫌なんだ、と。

ロキノン系も恋愛のことしか歌わない女も東野圭吾重松清も少女漫画の実写映画も逆ハーレム系ラブコメも制服ディズニーするやつらも、全部全部嫌いなんだ。

こう言うことによって自我を保とうとする。自分が自分として価値のあるものなんだと思い込もうとする。個性がない者や、言いたいことを言えない者が嫌いなのだ。見ていていらいらする。

こんなになんでもかんでも嫌ってちゃ視野が狭まるとは言われるが、そうは思わない。嫌いなものは見なくてよくて、好きになり得るものだけ見ればいい。視野などいくらでも広げられる。

世に対するヘイトばかりでいつも何かに怒って、生きづらいとは思う。しかし同じヘイトを抱えたもの同士でしか関わっていないから、楽なのだ。彼らとわたしも少しずつ違うのだが。

何が好きで、何が嫌いでもいい。それは個性だ。でも、普通か普通じゃないかで区切ることは、その人個人に対する侮辱でもあるのではないだろうか。

ブログを書く意味

気づけば1ヶ月ほど経っていた。

始めたきっかけは、日々思うことが多くてそれを書き留めて発散したい、というものだった。実際の知り合いに見られたくないからTwittertumblrもそのツールとしては使えない。そこではてなブログを思いついた。アメーバは操作性に欠けるし、他のメディアとのつながりが薄いと感じたからだ。

別に見てもらわなくてもいいけど日々のもやもやを書こうと始めたものの、今となってはアクセス解析が日課だ。グーグル検索からはたどりつきようのないこのブログを、驚くことに見てくれている人がいるのだ。そのつもりはなくとも、やはりうれしい。

なにを媒介としてここに来たのかはよくわからないが、そのような偶然の出会いを果たした人々に有用なものをなに1つ提供できず申し訳ないばかりである。

アクセス解析と人気記事ランキングには毎日欠かさず目を通す。書きたいことは、その日の夜には生まれてくる。複数あったら書き溜めて下書き。

見てくれている人がいることはうれしい。自分が作ったものが誰かの目に入ることなどそうそうない。しかも、全く知らない誰かなのだ。星をつけてくれたり、ブックマークしてくれたり、果ては読者になってくれたり、通知が来るたび嬉しくなる。

しかし、先日ブックマークをくれたある人のブログにとんだとき、わたしはびっくりしてしまった。「ブログのアクセス数を上げるには新着記事などを読んで星やブックマークをし、気になって飛んでくる人で稼ぐ」というような内容の記事があったのだ。

わたしはとても傷ついた。その人はもしかしたら、わたしのブログをいいと思ってブックマークをつけたわけではなく、こいつは始めたばかりでアクセス数も少ないだろうからブックマークしたらすぐ飛んでくるだろうなと予想してブックマークしたのかもしれない。悲しかった。評価されたと思って喜んでいたら、実際は利用されていただなんて。

ブログを書く意味をアクセス数に置く人もいる。広告収入を稼ぐためにはそうしなければならない。しかし本来ブログとはそういうものなのか?自分が知っているお得な情報や生活に役立つ裏技を紹介したり、ただ徒然と日々を描いたり、ときには世に対する苦言を呈したり、そういうものなのではないだろうか。

アクセス数にかじりついてしまう気持ちは理解できるが、そればかりになってしまってはもったいないと感じる。

わたしは、その日にしか得られない鮮烈な感情や、日々移り変わるマイブームを書き留めてあとで読み直す、日記のようなものとしてブログを書いている。アクセス数も気にはなるが、決してそればかりになってしまわないよう、これからも続けていこうと思う。

ブログを続けるにあたってご理解いただきたいのが、これはすべてわたしの主観によって書かれているため、読者とわたしの意見があまりに乖離していても文句はつけないでほしい。わたしはわたしというある一人の人間で、わたしの考えが影響を及ぼすことなど絶対にないので安心してほしい。バカな若者がなんか言ってるよ、くらいに見てほしいとお願いしておきます。

今週のお題「夢と挫折」

だいそれた夢を持ったことはない。根がネガティヴであるのと、期待を裏切られる恐怖から、悪い方へ悪い方へと考えて想像より実際が少しでも良いようにと気持ちを持っていく節があるから、夢などもってのほかなのだ。

夢を掲げたとしても、それを実現しようとすることはない。夢は夢であり、それに向かって頑張るなどという労力はかけていられない。日々をやっていくのに精一杯だ。

たとえばいまのわたしの夢は、彼のお嫁さんになって、フリーランスで広告デザインの仕事をゆる〜くやりながら、娘と息子ひとりずつに恵まれ、きれいなママであり続けながらかわいいパパと素直な子どもたちと暮らすことだ。これについては努力することもままあるが、彼と仲良くしていれば済むことだから、時々つまづいてもなんとかやっていけると信じている。

過去を思ってみると、寝たときに見る方の夢と同じような夢を抱いていたことが多いように感じる。ハリーポッターにはまっていた時期に、魔法が使えるようになりたいと夢をみたり、のだめカンタービレにはまっていた時期に(当時はピアノを習っていた)、のだめのように音を聞いただけで再現できるようなピアニストになりたいと夢をみたり。見るものに影響された夢が多い。

それゆえ、挫折という経験をしたこともない。唯一努力と呼べるようなことをした(しかし当時は勉強が楽しくて仕方なかったためそのような意識はない)大学受験はすべて順調、大成功を喫した。高校時代のダイエットは、ついには精神をおかしくしてしまい努力とか挫折ではなく強迫になってしまった。ほかには、努力した経験はない。これがゆとりと呼ばれる所以か。

火花については、書籍を読んだ。ブームの中、田舎でなかなか手に入らないと嘆いていた祖母が、わたしが読みたいであろうとなんとか手に入れたものを譲り受けたのだ。

又吉さんは芸人というカテゴライズでしか見ていなかったが、この人はきっとたくさんの本を読んでいてとても賢い人なのだろうなと漠然と思っていた。しかし、これほどまでに美しい文章を紡ぐことができる人だったとは思いもよらず、感動した。これじゃ、作家が何のために作家をやっているのかわからないじゃないか。

それがドラマ化されたという。しかも、書籍と同じわたしの現在のホームタウンを舞台として。

見たい見たいと熱望していたがiPadもないのにスマホの小さい画面で見るのもな、と思い踏み出せていなかった。

話を戻す。夢と挫折。書いてみようと思ったものの、わたしが想起するわたしの過去に、いわゆる夢もなく努力もなく挫折もなかった。なんて薄っぺらな人生だろう。

夢を持つのは悪いことではない。むしろ日々を彩ることができるため、よいことだとは思う。しかしその裏にある努力をするのはだるい、努力したのに叶わず結局挫折してしまったらすべてが無駄だ。そう考えると、そもそも夢を持つのは無駄なのではないか。典型的ゆとり世代と言われても文句の言えないような、あまったれた考え方だが、この屁理屈を曲げることができない。しかし根っこから屈折しているわけではない(と信じている)から、夢を持ってそれを追いかける人を見ても、イタいと思うことは少ない。むしろ、自分がそうできない分うらやましい。

夢をみている者はみな青春を生きている。だからまぶしい。夢をみることを諦めてしまった者は、そのようなきらめきに対する憧憬と嫉妬から逃れられない。

火花は、夢を持てない人にも、夢に向かって努力し挫折した過去がある人にも、現在絶賛努力中の人にも、きっと響く作品であろう。

夢も挫折もないぬるま湯なわたしから申し上げられることは何もないので、火花という作品を激烈におすすめすることだけはここでしておく。きっと映像作品となった火花も、名作なのであろう。ぜひご覧ください。まだ見てないけど。

 

Netflix火花お題「夢と挫折」

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ポケモンGO

ついに配信された。実際にプレイしていたのはダイヤモンドパールだけだが、アニメを再放送やVHSで初代から追っていた者としてはやらぬわけにはいかない。即刻インストールした。

最初にピカチュウを出すなんていう高等テクニックを全く知らずに突撃した結果、フシギダネ。かわいいから許す。自宅の机の下にいた。めちゃくちゃにかわいい。

少し早めに家を出て学校までの道のりで15体もゲットした。この街はポケストップもポケモンも多い。ついでにポケモンGOプレイヤーも多い。

学校に着き、友人に会うと、彼女もポケモンGOしていた。ピカチュウかわいいよねと言われてかなしくなった。

何がいいって、現実世界とのリンクを感じられることだ。ポケモンを捕まえるときは、背景が自らのカメラに映っている映像になる。つまり自分が見ている世界の中にポケモンがいるかのように感じることができるのだ。位置情報を駆使したシステムにより、ゲーム中の「やせいの 〇〇が あらわれた!」をまさしく体験できるのだ。ひきこもりでもポケモンゲットのために外に出てくるだろう。

アメリカで大流行を喫したのも、なるほど納得。街へ出てみればプレイヤーと20歩に一度はすれ違い、大学でもポケモンを探して歩く大学生プレイヤーがうじゃうじゃ。えらいこっちゃ、という感じだ。異常な光景でもある。みんながスマホを持って歩き、数人が同じところで時々立ち止まる。

歩きスマホを良しとしない世の中でこんなゲームを作って配信する勇気は正しいのか正しくないのかわからないが、事故なく楽しめればよいから、やはりプレイヤーの心遣いが必要となってくるだろう。ポケモンがすべて、のような思いやりのないプレイヤーが出てこないことを心から祈る次第だ。